ジョン・クレランド(英語: John Cleland、1952年7月15日 - )は、スコットランド出身の元レーシングドライバー。
イギリスツーリングカー選手権 (BTCC) に参戦を開始し、参戦10年間一貫してボクスホール(オペル)から参戦。ボクスホール・アストラやボクスホール・ベクトラをドライブし、1989年と1995年にチャンピオンを獲得した。
経歴
1970年代から地元スコットランドのラリーレースに参戦。三菱・コルト・ギャランで優勝した。イギリスツーリングカー選手権には1989年よりCクラスのボクスホール・アストラで参戦。参戦初年度ながらこの年のチャンピオンに輝き、知名度を得た。
1990年も4度のクラス優勝を記録してクラス2位(総合5位)と好成績を残し、新規定となった翌1991年も3勝を記録してBMWのウィル・ホイとチャンピオン争いをしたが、僅かに及ばずシリーズ2位となった。1992年シーズンもタイトル獲得の可能性を最後まで残し、BMWのティム・ハーベイとトヨタに移籍したホイと最終戦シルバーストーンまで、三つ巴のシリーズタイトル争いを展開。このレースで、ハーベイとホイより先にゴールすれば、クレランドにとって2度目のタイトル獲得になるのだが、ハーベイと彼を援護するチームメイトのスティーブ・ソパーとマシンが損傷するほどの激しい攻防戦を終盤まで繰り広げた。ところが残り1周となった所で、ソパーと共に接触してスピン。タイトルを逃してしまう。この年クレランドは最終ランキング3位でシーズンを終え、タイトルを獲得したのは4位でゴールしたハーベイだった。(ホイは5位で完走)。この直後のインタビューでクレランドは激しい怒りを露にした。このレースは非常に有名となりBTCCの名勝負によく挙げられ、現在もYouTubeなどで視聴することができる。1993年と1994年も1勝以上の優勝を記録し、クレランドは1995年に2度目のタイトルを獲得した。ここまで毎年1勝以上の優勝を記録するなど好成績を修めてきたクレランドであったが、その後の2年間は低迷。
特に1997年は1度も表彰台に上がる事は無くドライバーランキングは12位。ボクスホールもこの年は全8メーカー中製造者部門の最下位となってしまった。
1998年は大幅なマシンの開発を行い、新型のボクスホール・ベクトラでデレック・ワーウィックと共に参戦して2勝を記録したが、シーズン半ばのスネッタートンではクラッシュに巻き込まれてしまい、続くスラクストン戦は欠場を余儀なくされた。最終ランキングは8位に留まった。翌1999年もボクスホールに残留。ドライバーを退いてチーム運営に専念する事になったワーウィックに代わってイヴァン・ミュラーがチームメイトとなった。しかし、この年クレランドはドライバーランキング13位と苦戦を強いられ、この年をもってBTCCから引退することを表明。惜しまれつつ10年間のBTCC参戦にピリオドを打った。
その後イギリスのGT選手権などでも活躍。現在は、自動車ディーラーを経営する。また2008年からはBTCCでクレランドと同時期に活躍し、同じスコットランド出身のデイビッド・レズリーが同年3月にセスナの墜落事故により死去。彼の後任として世界ツーリングカー選手権の解説者も務めている。現役のレーシングドライバーとしては第一線を退いたが、現在もイギリスのレーシングイベントにも積極的に参加するなど様々な活動を行っている。
レース戦績
イギリスツーリングカー選手権(BTCC)
- ^ –大雨のため、レースは中止された。ポイントは付与されなかった。
- 太字はポールポジション、斜字はファステストラップ。(key)
- *はフューチャーレースにおける少なくとも一周のラップリード。
バサースト1000
イギリスGT選手権
( key )( 太字はポールポジション)( 斜体はファステストラップを示す)
世界ツーリングカーカップ
脚注
外部リンク
- BTCCPagesのプロファイル
- オフィシャルサイト
- BRDCアーカイブプロファイル
- Clelands of the Bordersカーディーラー




